『アイユ』連載「感染症の歴史における差別」 第5回

 

 

 結核は、1950年代まで日本では死因のワースト1位であり「死病」と恐れられ、「国民病」とまで言われたほどの大きな健康被害をもたらした。歴史的には、人骨に残る骨の結核である脊椎カリエスの痕跡から古墳時代に海外から入って来たと考えられている。18世紀後半の産業革命による都市集中と労働環境の悪化で結核が広がったイギリスなどの先進工業国から、工業技術の導入と共に世界的に広がった。明治以降の殖産興業政策で日本でも急速に拡大した。明治期から第2次世界大戦までに活躍した人、例えば、樋口一葉、石川啄木、青木繁、滝廉太郎、正岡子規、堀辰雄など多くが結核で若死にしている。中でも当時国家的事業として大規模化した製糸工場で働く女性に広がり「女工哀史」(1925年、細井和喜蔵)に描かれた。

 原因である結核菌は、1882年3月24日にドイツのロベルト・コッホが発見した。この日は、後に世界結核デーに定められた。明治期には安静と空気の良い高原や海岸で療養するしか方法がなかった。その後、化学療法が開発され、更に抗生剤であるストレプトマイシン(1944年、ワックスマン発見)が画期的な効果を発揮して、結核の患者数は大きく減少していった。現在の結核患者は、主に、高齢者であり、若い時に感染した結核菌が体内に潜み、それが高齢化による免疫力の低下で再活性化したものである。ここが明治期の結核との大きな違いである。結核のワクチンであるBCGは牛結核菌を免疫源として使うもので、人結核菌との交差反応性を利用したものである。

 治療可能になるまでは、感染が咳・呼吸で容易に広がることから、患者は忌み嫌われた。昭和20年代でも結核患者の家の前では息を止めて走って通ったり、その家に行くな、その家の子とは遊ぶなと言われていた。治療薬の無かった時代、特に経済的な問題で転地や療養所に入れない患者はやむなく自宅療養になるが、その結果容易に家族内に感染が広がることになった。結核が感染症であることが既に分かっていても、その家は「結核の家系」だと忌み嫌われることになり、結婚や就職などで差別を受ける事が起きた。そのため、患者が1人出ると、敷地内の片隅に隔離小屋や屋内に隔離部屋を設けて患者を隠す事が行われた。患者は病で苦しむ以上に、隔離されるという二重の苦しみを味わうことになった。壷井栄の「二十四の瞳」にも、70年以上前の光景であるが、その場面が描かれている。

 

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加藤 茂孝(かとう しげたか) 国立感染症研究所室長、米国CDC(疾病対策センター)招聘研究員、理化学研究所新興・再興感染症研究ネットワーク推進センターチームリーダー、WHO非常勤諮問委員、日本ワクチン学会理事などを歴任。現在、保健科学研究所学術顧問。
専門はウイルス学、特に、風しんウイルス及び麻しん・風しんワクチンの研究。胎児風しん感染のウイルス遺伝子診断法を開発して400例余りを検査し、非感染胎児の出生につなげた。
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