『アイユ』連載「感染症の歴史における差別」 第10回

 

 

 2001年9月11日の飛行機による同時多発テロの緊張感・恐怖感がまだ消えない米国の2003年は、人々への不安・心配をもたらす事件が三つほぼ同時に起きた。2001年のテロ以降に起きた郵便物に炭疽菌を入れたバイオハザード事件、米国がテロの報復としてイラクへ侵攻したイラク戦争、そして中国広東省広州市から広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)の発生であった。三つの事件の中に二つも感染症が含まれる特異な年であった。イラクへの攻撃理由に天然痘によるバイオテロの可能性を挙げていたことを考慮すると3件とも感染症がらみであった。私は2002年10月から米国CDC(Centers for Disease Control and Prevention, 疾病対策センター)に客員研究員として滞在していたので、CDCや更に広く米国民の緊張感を感じた。

 SARS発生当初、中国政府はWHO(世界保健機関)による広州への査察を拒否し、その間にも、香港を経由して東アジアを中心に広がった。2003年2月28日にベトナムのハノイで発症した香港から来た患者を診たWHO医官のカルロ・ウルバニ(イタリア)が、それまでには存在しなかった肺炎であると診断してWHOやベトナム政府へ報告した。彼は治療中に感染して死亡した(3月29日)。尊い犠牲であった。中国も公開と対策に転じて、WHO西太平洋事務局の「不急の旅行の自粛勧告」が功を奏した。約8000人の患者と、約800人の死亡者(致死率約10%)を出して半年で終息して、その後この疾病の出現はない。細胞培養で分離されたウイルスの電子顕微鏡写真と遺伝子解析から、コウモリ由来のコロナウイルスが原因であるとされた。SARSによるこの年の経済損失は3兆4000億円と推計されている。当初は当然ながら治療法や予防法が全く無く(現在でも無い)、流行地では恐怖が広がった。中国で治療に当たる医療関係者にも多く感染者を出し、職場から逃げ出す関係者もあった。そのため中国政府は外から病院を封鎖して逃亡を防ぐなどの過酷な状況さえ起きた。日本は幸い一例も患者が出ないで終わったが、台湾から旅行に来た医師が帰国後SARSと診断され、彼の日本国内での旅行ルートではパニックが起き、人通りが途絶えるほどであった。疑い例は何例もあったが、幸いPCRの検査結果としてすべて陰性であった。未知の感染症の場合、恐怖感から患者・医療関係者へ対する人権侵害が起きる。

 

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加藤 茂孝(かとう しげたか) 国立感染症研究所室長、米国CDC(疾病対策センター)招聘研究員、理化学研究所新興・再興感染症研究ネットワーク推進センターチームリーダー、WHO非常勤諮問委員、日本ワクチン学会理事などを歴任。現在、保健科学研究所学術顧問。
専門はウイルス学、特に、風しんウイルス及び麻しん・風しんワクチンの研究。胎児風しん感染のウイルス遺伝子診断法を開発して400例余りを検査し、非感染胎児の出生につなげた。
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